越後門出和紙(えちごかどいでわし)代表・小林康生さん

※この記事は3月10~12日に柏崎市高柳町で行った“田舎Iターン留学・にいがたイナカレッジ”と新潟をもっと楽しくするウェブマガジン“にいがたレポ”のコラボ企画「地域を書く合宿」で書いた記事です。

上越新幹線の長岡駅から1時間15分ほど車を走らせたところにある山あいのちいさな町・高柳町門出(たかやなぎちょうかどいで)。冬になると3メートルもの雪が積もる豪雪地帯のこの町では、昔から、農家の冬の副業として伝統的に紙を漉き続けてきた。 雪さらしをすることで雪のような白さを出すことが特徴だ。大正時代には40軒程の農家が紙漉きを副業としていたが、現在は一軒のみとなってしまった。その一軒を守り続けている越後門出和紙(えちごかどいでわし)の小林康生さんにお話を伺った。


楮(こうぞ)がなりたい紙をつくる


ー小林さんは「楮(こうぞ)がなりたい紙をつくる」方だと伺ったのですが。

小林さん:20代の頃は「自分がつくりたい紙」をつくっていた。つまり、それは作家・職人活動。自分の個性が紙に滲んだ、自分の化身みたいな紙をつくった。最初はみんなそう。 しかし、30代になると自分がいいと思った紙が使い手に喜ばれなくなってきた。使う人が喜ぶ紙が一番いい紙だと思い、軌道修正した。 当時は、本来の自然の紙を使う人が少なくなってきた時代。楮(こうぞ)、雁皮(がんぴ)、三椏(みつまた)の皮、植物の繊維を使ったものが和紙だという定義でやってきたのに、木材パルプなどが混入した紙がお店に並び、昔ながらの製法でつくられた紙は市場に出回らなくなっていた。「白い紙が欲しい」「滲まない紙がほしい」など、原料である楮が出せる範囲を超えた要望があたりまえになってくる。実際、そんな紙が店に売られているのだから仕方がない。水墨とか絵を描くお客は白い紙を喜ぶ。9割のお客が白い紙を好んだ。私はお客の要望に合わせて、次亜塩素酸を使って紙を漂白した。漂白すると、楮の繊維が痛め付けられる。塩素が紙の中に残留するので、10年くらい経つとフォクシングという斑点ができたりする。ある時、紙を選別していると、自分が漉いた記憶のある紙が病気になっている(斑点ができている)ことに気付いた。和紙は漉いてから1000年もつと言われているのに、高々100年もたないようじゃ洋紙と変わらないじゃないか。この時私は、お客の要望に合わせ過ぎてしまったことを反省した。 40代になった私は、自分で栽培している楮がかわいいから、楮の声を聞き、楮がなりたい紙をつくるようになっていった。 




「つくる紙」と「育てる紙」 


ー紙のつくり方や気持ちが年齢とともに変化してきたのですね。 

小林さん:40代になると、「つくる紙」と「育てる紙」のふたつがあるということに気付いた。自分がつくるのは「育てる紙」だから、育てられる相手(楮)と折り合いをつけなければならない。自分の父=お百姓さんがやっていたやり方だ。 一方で「つくる紙」というのは、相手に命令してつくっていく。自分が気に入らないものは排除しながら気に入ったものだけを残し、強いこだわりをもってつくる。作家・職人活動とはそういうもの。 自分は一年中紙漉きをする専業の和紙職人を目指してきたのだが、40歳を超えた時に、どうやらそれが本物ではないと思うようになった。夏に百姓をやって、冬のいちばん寒い時に紙をつくると、原料も腐らなくて、いい紙ができる。紙というのは水素分子の結合でくっつくもんだから、水の表面張力が高い気温3.8℃の時に、いちばん強度のある締まった紙ができる。今は、冷蔵庫だとか、化学薬品やエアコン、いろんな人工的環境を駆使して夏もつくられているが、本来、紙は冬しかつくっちゃいけない。  


ー夏に紙をつくるのは不自然ということですね。 

小林さん:「育てる紙」は「文化の紙」。「つくる紙」というのは「文明の紙」。「文化の紙」は、心に介入する。「文明の紙」というのは、常に発展しなくてはいけないという仕組みがあって、変化がなくなった時に没滅する。だから人間は次から次へと変化してどんどん便利になっていく。文化っていうのは心だから大昔も今も変わらない。おかしけりゃ笑うし、泣くし、子育てだって基本的に変わらない。俺は、「文明の紙」じゃなく「文化の紙」の紙をつくる! 

50代になるとお客に合わせるということをほどんどしなくなった。お客に合わせた「気配り」じゃなく「心配り」。今の世の中「気配り」ばっかり。「気配り」って感心するけど感動はしない。心が見えてこないから。レストランなんかは「気配り」で無難に大方が喜ぶサービスをやる。かやぶきの宿(※1)は「心配り」を大事にしている。「心配り」っていうのは、決まりがない。ごはんをてんこ盛りにするおっかさんもいるし、何回でもおかわりしてもらおうと思って少なくする人もいる。それぞれやり方が違う。だから涙が出るくらい喜ぶお客もいるし、頭にくるお客もいるし、諸刃の剣なんだよ「心配り」っていうのは。だけどここの宿はおっかさんたちがそれぞれやりたいようにやらせる。こうしなさいということはしない。ここは百姓の宿だから。文明の宿でなくて文化の宿だから。それをいやだという人は来なければいい。 紙の方もいやだったら使わなくていい。俺は楮の方に合わせて、使い手には合わせない。そういう風に腹を括ったから。  


ー「心配り」はお客さんを選ぶということでしょうか。

小林さん:60歳になった時、私は思った。人間としていちばん大事なのは、分かち合うこと。 「心配り」は、人間の記憶の力がいっぱいたまらないとできないんですよ。若いうちはまだ心が未熟だからできない。これが歳を取ってくると、生まれた時の環境とか生まれた国だとか生まれた地域だとかそういった環境がその人の心を育てていく。いろんな経験が。頭じゃなくて体で痛い目に遭ったりしたことが、すべて記憶の力になる。「気配り」は訓練すればある程度できる。だけど「心配り」っていうのは、人間を磨かないとできない。 

ー小林さんの「心配り」に共感してくれる人が和紙を使ってくれていますか? 

小林さん:共感してくれる人はもちろんいる。作家の方々は、すごく共感しなかったらうちの紙なんて使わない。だって使いにくいんだから。値段は高いし(笑)。かなり必然性がなければ使わない。


ー小林さんは、和紙づくりにおいて軌道修正して来られたことに手応えを感じていますか? 

小林さん:いいとか悪いを超えている。それしかないんだから。それが幸いにもなんとかなっているんだから幸せもんだよ。人は誰でも信念を持って生きていれば、必ず仲間ができる。俺も何度助けられたことか。きりがないくらい。生きていることはほんとうにおもしろい。  


ー仲間に助けられたのは、小林さんの心が折れてしまった時ですか? 

小林さん:心が折れるということはない。だって心が折れそうな状況になると益々わくわくするじゃないか。ひどい目に遭うけど、今まで気付かなかった自分に気付くチャンスをもらえるんだから。そして、ひとまわり自分が大きくなれるんだから。ほんとうに折れることは今までなかった。ストレスはしょっちゅうあるけどね(笑)。 



 

後継者が要らないということがいちばんの問題  


ー今は長男の抄吾さんといっしょに紙漉きをやっていらっしゃると聞きました。4人のお子さんが皆、紙漉きになってほしいと思いますか? 

小林さん:娘については(紙漉きになってほしいと)思っていなかった。できれば3人の息子には、紙とか「大地の学校」(※2)とかを、誰かが繋いでくれたらいいなと願っている。自分が芽を起こすところまでいけるかいけないかで死んでしまうと思うから。3番目(のお子さん)も最後には紙漉きになるだろうと思っている。4番目(のお子さん)も小学校からずーっと紙やる(紙漉きをやりたい)って言っていて。まあアテにならんけど(笑)。


ーすみません!私の勝手な妄想で、後継者に困っていらっしゃるのかと思っていました。今スタッフの方は何人くらいいらっしゃるのですか?  

小林さん: 弟夫婦とパートタイマーも入れると13〜14人。若い人はほとんど県外から来ている。広島、大阪、東京。30~35歳が多い。スタッフのために宿泊施設も持っている。うちは奇跡なのかもしれない。全国でいちばん恵まれていると思う。若い人がこれだけ揃ってなんとかまわしていけるというのは、なかなかない。 今いちばんの問題は後継者が必要ないということ。全国的にそう。 高知県の土佐和紙工芸村や岐阜県の美濃で、文化庁や都道府県が3年くらい助成してくれて、後継者養成をしてくれた。ところが、一人前になってもその親方さえ食えないから、ずっとアルバイトのままでいるパターンが多い。 後継者が必要ないということは深刻な問題。和紙だけでなく、日本の伝統文化、漆とかもだんだん必要産業ではなくなりつつある。それをつくる能力はあるのに。たとえば大工さんでも宮大工の技術を持っているのに、ボルト締めの仕事しかなかったり。これからもうちょっとするとほんとうに技術を持った人がいなくなって(亡くなって)しまう。それが私にとってすごく屈辱的なこと。技術を使う人がいれば循環するから、後継者養成の試験なんかいらない。そこには勝手に人(後継者)が入ってくる。 


ー人を育てても、その技術を使うところがないということですか? 

小林さん:使えるモノをつくるという生産者の方の努力も必要だと思う。伝統的なモノを残すためには食える産業(お金になる仕事)も同時にやらないと。普段やっている楮を育ててつくる昔からの伝統的な紙はなかなか売れなくて。だけどやめるのはいやだから、それを残すにはどうしたらいいか考える。そうすると時代の中で食える紙(お金になる紙)はなんなのかと。今まで建築物の金属と和紙はコラボレーションしたことがなかった。考えてみると、もう暮らしの中に金属はたくさん入ってきているわけだから、あの冷たい質感を和紙でくるんでもおかしくはない。100年単位で考えると異質だが、2200年の紙の歴史(楮の歴史は1400年)の中、これから1000年2000年先を考えるとまあそれもありかと。心からは好きにはなれない。でもたぶん1000年も経つと笑い話みたいに、金属と和紙の組み合わせもなんの違和感もないものになっていくんだろうと思う。だから、未来を見通した中で、金属と和紙を絡める、中身は金属だけど、外側は和紙で覆われている金網和紙という紙づくりに取り掛かっている。次の時代に、博物館やカフェ、いろいろなところで役に立つ可能性が大いにある。 



呼吸する紙を未来へ繋ぎたい


ー小林さんが考える紙漉きの未来は? 

小林さん:いましばらく苦しい状態が続くだろう。紙だけでなく、人が自然と寄り添う生き方をしてもらいたいと思う。自然と寄り添うってことは、暑いのも寒いのもそこそこ我慢せい!ってこと。だからそういうことを受け入れる人たちが多くなれば「文化のもの」の需要が増える。「文化のもの」っていうのは命を持っている。呼吸するんだよ、木材も土も紙も。大きくなったり小さくなったりする。出来上がった時はみんな弱いんですよ。紙だと300年とか400年経つとだんだん丈夫になってくる。木も檜だと800年で丈夫になっていくそう。人間といっしょ。生まれてだんだん成長して最後に死がある。これが大事。死がなかったらそれを愛して使うということはできないんじゃないかと思う。死があって呼吸している感覚がいっしょだから、使おうと思う心が人間の中にあるんだと思う。人工的なものは出来上がった時に最高の状態で翌日から劣化する。物語もない。だから、いわゆる「呼吸する紙」を未来に繋いでほしいというのがいちばんの願いだ。「呼吸する紙」のような自然の素材が、生きている人間と分かち合いながらいっしょに歳を重ねていくべき。人間は自然の子供であるべきで、自然の親を目指すべきではない。だけど今は逆に自然の親を目指しているような気がしてならない。その先に豊かな未来はない。 



 自分は必然のことをやればいいと思っている。ここに生まれてこの時代にこの地にいる。自分が何をやったら少しでもまわりの役に立てるかを考えた。五感を豊かにすることをこの地でやることがこの地のいちばん必然であるし、それが未来に対して大いに役に立つことであると。みんなの役に立つのであれば、協力も得られる。60歳を超えて、こだわりがなくなったから、今は「うまくいくかいかないか」にはあまり興味がない。やるべきこと、気付いたことを淡々とやって死んでいければいい。最後は死ねるんだから、こんな楽なことはない。死ぬのもすごく楽しみ。永遠に死なないと言われたら怖いけど、終わりがあるんだから安心して生きていればいい。 


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小林康生さんプロフィール

 和紙職人。越後門出和紙(えちごかどいでわし)代表。1954年新潟県門出生まれ。 原料の楮から手漉きで和紙を作り、銘酒『久保田』のラベルも手掛ける。 自然と寄り添う「育てる紙」との暮らしを提案するため、高志生紙工房(こしきがみこうぼう)を設立。気軽に和紙に触れられる見学や体験プログラムを行う。 また、門出町の地域おこし、門出ふるさと村組合長として、かやぶきの宿(※1)の運営や修復、この地で五感を豊かにすることをテーマとした「大地の学校」(※2)構想に取り組んでいる。  


越後門出和紙(えちごかどいでわし)

〒945-1513 新潟県柏崎市高柳町門出2851 TEL:0257-41-2361 FAX:0257-41-3024 

高志の生紙工房 

開館時間: 午前9時~午後5時まで(正午~午後1時までは休憩)

営業日: 平日及び第3土曜日 冬期間(12月15日~4月15日)は平日のみ 

休館日: 日曜日と祝日、冬期間(12月15日~4月15日までの土・日・祝日) 

紙漉き等の見学: 平日と第3土曜日のみ。入館無料。

(但し、説明を希望される場合は、1グループ(15名位)1,000円(税込)。団体の場合は要事前申込み。2階の生紙ギャラリーにて門出和紙を使った作品が常時展示されている)


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写真と文:山本 加容